定例講座 2010年6月24日 斎藤さんの発表です

By , 2010年6月30日 2:32 PM

新潟の名誉のために     2002.2.

中国人の中に、「ニイガタ」を「xin xie」(シンシエ)と発音する人がいます。以前、(日本大学教授)にお尋ねしたところ、「それは間違いだから正しい読み方を教えてあげてください。」と言われたことがあります。

 しかし、どうして漢字の本場の中国人が間違った発音をするのか、そのときは分りませんでした。ところが、一昨年2月《魯迅文学の故郷を訪ねる旅》で中国江南地方を旅行したときのことです、上海駅で列車待ちをしていたとき、上海駅の電光掲示板で新潟行航空便の案内をしているのが目に入りました。

 何気なく見ていると、新潟が「」となっていて、従ってローマ字表記も「xin xie」(シンシエ)となっていたのです。これで謎が解けました。要するに間違って発音していたのではなくて、「ニイガタ」の漢字そのものが間違っていたのでした。

 帰国後千葉の友人から便りが届きました。『(上海空港)で、新潟行WH-295便の案内をしているアナウンサーが(カイワン シンシエ)と間違えて繰り返し放送していたので、成田行CA929便搭乗口の案内嬢に、訂正するようにと余計なおせっかいをしてきました。』と言う内容でした。

義を見てせざるは勇なきなり、と言います。私も新潟の名誉のために、敢えてひとこと発言することにしました。

*     *     *

 中国で最も普及している字典「新華字典」に次のように載っています。

  潟(xi シー):。(塩水が染みこんだ土地)

  (xie シエ):。(液体が速く流れる)

         :。(下痢をする)

 小学館、北京・商務印書館 共同編集の「中日辞典」では次のようになっています。

  潟(xi シー):〈書面語〉アルカリを含んだ土地。

  (瀉)(xie シエ):1. 速く流れる。

             :2. 腹を下す。 下痢をする。

 岩波中国語辞典には次のように書いてあります。

  (xie シエ): 腹を下す。

   : 一日中下痢をした。

       : 吐いたり下したり。

 このように中国語では「」は腹を下す、下痢をするという意味の文字です。これは「潟」の簡体字ではなくて、「瀉」の簡体字です。つまり「」と「潟」は同じではなく、別の文字なのです。

 日本語でも中国語の場合と同じです。吐いたり下したりすることを「吐瀉」といいますし、薬学では下剤のことを「瀉下剤」と言ったりします。 読み方も「としゃ」、「しゃげざい」、のように 「瀉」の音読みは「しゃ」ですが、「潟」の音読みは「潟湖」を「せきこ」と読むことからも分るように「せき」です。つまり日本語でも「潟」と「瀉」は別の文字で、「」は「瀉」の略字であって「潟」の略字ではありません。

*     *     *

 「潟」は海の一部が砂州や砂嘴で仕切られてできた浅い海のことです。数千年前、新潟の平野は一つの大きな「潟」でしたが、信濃川や阿賀野川が運んだ土砂によって埋め立てられ、徐々に陸地になっていったといわれています。

 今はその一部が、鳥屋野潟、福島潟、佐潟などとなって残っていて野鳥の楽園になっています。「潟」には美しいイメージがあります。 それにひきかえ「」は美しくないもの、汚いものを連想させます。ですから、新潟を愛する私は、「ニイガタ」はどうしても「新潟」でなければならないと思うのです。

 お気付きの方も多いと思いますが、新潟でも二十年ほど前までは道路の案内表示板に「」、「」などと、間違えて「」の字が使われていました。しかし今は全て「潟」に改められています。誰かの指摘があったのではないかと思います。

私の知っているハルビンからの留学生は「新潟」を正しく「シンシー」と発音していますが、 先日、新潟で中国語を教えているある留学生が「新潟」を「シンシエ」と言っていると聞きましたので「ニイガタ」は「」ではなくて「新潟」なのだと「新華字典」に載っている説明を見せてあげました。

 私は、中国人が「ニイガタ」を新潟(シンシー)と言わず、(シンシエ)と言い間違える理由が二つあると思っています。一つは、中国は大陸であるために「潟」そのものがあまりありません。中国人自身が言っていたことですが「潟」という字は中国人にとってあまりなじみがない文字だということです。しかし、「」と「潟」を正しく区別しているある中国人留学生は『中学校の地理の教科書で「潟湖」という言葉を勉強した。だから中学時代に教わったことを覚えていれば、「」と「潟」を間違うことはない。』と言っていました。

もう一つは、日本人自身が「ニイガタ」を間違って””と書き、この間違った情報を中国に発信していることです。「ニイガタ」は「」ではなくて「新潟」なのだということを中国の人達に周知徹底させるにはどうしたらいいでしょうか。

私はこう思います。平凡な考えですが、先ず私達新潟県人が「潟」と「」の意味の違いを正しく理解すること、中国に間違った情報を発信しないことが大事だと思います。そして既に間違って理解している人に対しては根気よく、「ニイガタ」は「」ではなくて「新潟」なのだと言い続けることが必要だと思います。

新潟県の皆さん、新潟県の名誉のために「ニイガタ」は「」ではなくて「新潟」なのだと言いましょう。

「中国語・新潟」 斎 藤

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《越後の越前浜》

伝承によると、越後の越前浜は戦国武将朝倉義景の子孫、或いはその家臣たちが造った集落と言われている。そこにはどんな物語があるのだろうか。

① 先ず、朝倉義景が織田信長に敗れるまでの歴史の流れをたどることにする。

  室町幕府最後の将軍となった足利義昭は1567年朝倉義景を頼って、その居城のある一乗谷に1年たらずの間、客人として過ごした。義昭にしてみれば、当時最有力戦国大名であった義景が、自分をかついで上洛してくれることを期待したらしいが、義景にはその野心はなかったようである。そんな時、織田信長が義昭に手を差し伸べた、義昭にとって渡りに船であった。

  1568年、信長は義昭を奉じて上洛、義昭は室町幕府15代将軍となった。信長は将軍の命令と称して各地大名に上洛を求めたが、義景は信長のはかりごとだと思い上洛しなかったばかりか、信長の侵入に備えて防備をかためた。このことは信長に口実を与えた、将軍に刃向ったと言う訳である。信長は義景を攻撃した。

近江の浅井長政の妻は信長の妹”お市の方”であったが信長に味方せず義景と同盟して信長と戦った。1570年「姉川の戦い」である。

  一方、石山本願寺の明け渡しを強要されて信長と対立していた本願寺法主 顕如は、それまで宿敵関係にあった朝倉義景と同盟を結び、顕如の長男教如と義景の三女との婚約が成立した。(後に、明け渡しをめぐって”明け渡し止むなし”とする顕如と”あくまで明け渡しに反対”した教如は対立し、その結果本願寺は西本願寺(顕如の三男准如)と東本願寺(教如)に分れ、現在に至っている。)

  朝倉義景、浅井長政、本願寺、延暦寺、三好義継、武田信玄などによる信長包囲網を工作したのは「勝手な行動は許さない。天下に命令するのは信長である。」と言われて憤懣やるかたなかった将軍 足利義昭だと言われている。

  1572年、三方ヶ原の合戦で徳川家康と信長の援軍が武田信玄に大敗したのを見て将軍義昭は信長との表面的な友好を捨てて公然と反信長を表明した。しかし、しかしである1573年4月、武田信玄は病死する。これによって武田軍は徳川領より撤退せざるを得なくなった。武田軍は信玄の死を公にせず厳重に伏せていたが、信長はこのことを、織田家および徳川家の細作を通して知っていた。これに対して浅井・朝倉陣営は信玄の死を知らず、武田軍の援軍を期待して戦っていたようである。信長は後顧の憂いなく浅井・朝倉と戦うことができたのだった。

  結果は、1573年7月 将軍足利義昭京都から追放となる。8月 朝倉一族滅亡、義景は自害、浅井一族も滅亡、長政も自害、11月 三好義継 自害という結果になり信長包囲網は崩壊した。しかし一人本願寺は信長と対立を続け、1574年には越前一向一揆が成立し、越前・加賀は一揆の支配するところとなったが、1576年 信長は柴田勝家を送り込んで一揆の殲滅を図った。

(一揆について一言:一揆の「揆」は、推し量る、標準・基準・道理などの意味を持つ。従って、一揆とは「揆を一つにする」こと、即ち同一の目的のもとに結集した集団を意味した。)

  義景の最期は従兄の景鏡の裏切りによる自害だったと言われている。義景 享年41歳であった。景鏡は信長の武将であった秀吉に降参し、義景の首と一人息子 愛王丸、義景の母 光徳院の身柄を引き渡した。二人の身柄は丹羽長秀に預けられたが、長秀は帰るの里のお堂で光徳院、愛王丸の二人を刺殺し、お堂もろとも焼き捨てたと言われている。かくして、義景の子孫は根絶やしにされたことになっている。

② 越前朝倉一族と越後の越前浜集落との文化の類似性。

  松原信之著『越前朝倉一族』によると、朝倉氏は初め日下部氏と称して代々但馬の国に住んでいた。平安朝の末頃、同国出石郡朝倉に居を構えてから朝倉氏と称するようになった。1558年、正親町天皇即位の礼の多額の費用を進献した功績によって「従四位下」に叙位され、その翌年、孝徳天皇を始祖とする皇胤説を主張した『赤渕大明神縁起』を創出した。その中で次のように書いている:「新羅軍が攻めてきたとき朝倉氏の祖 孝徳天皇の皇子 表米親王が総大将となって丹後の白糸浜から出船、苦戦しているとき守護神の粟鹿大明神が現われた。これに力を得た海神が無数のアワビとなって表米親王を助け勝利に導いた。そのため最後に御座舟の中に残っていたアワビを御神体として祭ったのが赤渕大明神である。」以後日下部一族はアワビを食しない。一乗谷発掘調査でも、発掘される貝類の中にアワビの貝殻だけはない。

 越前浜 長倉 勲氏によると、朝倉氏滅亡後 家臣はばらばらになり、生活も困窮、更に一向一揆も発生する乱世であった。多くの領民は圧政から各地に逃れようとした。そのような中にあって、1578年頃(天正6年前後)、越前三里浜の住民の一部が海路現地を逃れたのが当集落形成の始まりである。伝承によれば、夜陰に乗じて三艘の小船に分乗して逃れたが、一艘は途中で沈没、一艘は佐渡小川村に漂着、残る一艘が当海岸――角田岬に漂着した。寒さと飢えの中で鶏の鳴き声を耳にし、人家のある事を知ったとき、どんなに救われた気持になったことだろうか。この第一陣のメンバーは7人とも8人とも言われている。

 「数年前、佐渡より小川部落民 当村を訪れ、奇しき因縁と再会を喜び帰島す。」という先人の記述も残っている。また7~8人衆は、金子、小川、早見、山下、篠沢、鈴木、斎藤、鵜(浅井の臣)とある。

 その後、1598―99年(慶長3~4年)にかけて第二陣、第三陣を迎え入れ、本格的な集落形成がなされていった。この両陣は28人衆といわれるが、三陣合せて28人ともいわれ、どちらか定かでない。その中で、第二陣の人々が小橋屋村の検地帳を持ってきたといわれている。

  特定できないが、28人衆として、小川、山川、小林、玉川、古井、川見忠蔵、川見七右衛門、清水、小川元右衛門、小川勘平、長倉、広川、藤巻 ・・

 鶏の鳴き声に導かれて上陸した先人たちにとって、正に鶏は「命の守り神」としての存在となった。その深い絆と心の拠り所となる鶏を祭神として『鳥之子神社』あるいは親しみを込めて『鳥の子サマ』として崇敬してきたのである。また、闇をつらぬいて「ときの声」を挙げ、いつか羽ばたきたいと思う気持と重なっていたのかも知れない。以来360余年の永きにわたり、1945年(昭和20年)代の戦後まで、鶏肉は言うに及ばず鶏卵の食断ちをしてきたのである。病人に止むを得ず滋養として食べさせたいときは、「鳥の子サマ」に鶏卵を供えてお詣りをし、許しを請うてから食べさせたのである。また、全国的にも知られた「毒消し売り」の出稼ぎ女性が多く、その出先で止むを得ず鶏卵を食べたときは、その旨 故郷の家族に手紙で知らせ、「鳥の子サマ」に鶏卵を供えてお詣りをし、許しを請うたのである。

③ 越前の〈川尻山西光寺〉と越後の〈川尻山西遊寺〉

  平成7年、越前の西光寺は「平成の大修復」を記念して《西光寺のあゆみ》を発行した。その中に次のようにある。「天正年間、打ち続く戦いで川尻におられなくなった人々があった。一説には織田に敗れた朝倉の残党とも伝えられている。舟で海路を北にとり、故郷とよく似た地形を見つけて舟を着けた。故郷とは現在の福井県両橋屋であり、落ち着き先は新潟越前浜である。この地に、西光寺6代目の性誓が川尻山西遊寺を建立した。慶長年間(1600年)のことである。西遊寺建立以来、両寺の交流は各代住職一代に一度、上人の御影を奉持して詣り合いをすることになっている。

 「朝倉始末記」に見えるように、西光寺門徒の部落は日本海に面して越前の長橋から加賀の安宅まで二十数か所あったが、これらがことごとく焼かれた。川尻の地には誰も居られなくなったに違いない。義景滅亡後、1574年越前一向一揆成立。1575年~76年信長は柴田勝家を送り込み一揆の殲滅を図った。信長に殺された人々は三万とも四万とも言われている。このとき、川尻性光の子供、孫ことごとく探し出し張り付けにせよと書かれていたように、性光の一族は皆滅せられようとした。性誓は宝物等を持参して、川尻両橋屋の人々と越前浜へ身を隠したのであろうか。西光寺は無住となってしまった。

 因みに、西光寺は以下のような経歴をもった由緒ある寺院である。朝倉家5代 教影の二男将景は出家して川尻に住み性光(ショウコウ)と名乗った。初めは真言の僧であったが1471年、本願寺8代法主 蓮如に謁し、蓮如の弟子になった。この性光が〈川尻山西光寺〉の初代住職である。性光は生涯独身だったので、晩年になって朝倉家7代孝景の二男を養子にし、蓮如上人の妹の子 以真をめあわせた。これが西光寺2代住職 空了である。

  越後越前浜の〈川尻山西遊寺〉開基のため何度か越前浜を訪れたと言われている性誓は西光寺6代住職であった。(現在の西光寺住職は22代闡秀、現東本願寺法主は24代闡如)。

④ 物語のまとめ

 山岡荘八『織田信長』:すでに一乗ヶ谷の城は織田勢の攻撃をうけだしていた。義景はそれを知らずに、高橋甚三郎を使者として平泉寺に味方を頼んだ。平泉寺は朝倉家とは切っても切れない縁がある。したがって当然味方してくれるものと信じていたが、使者への返事はにべもなかった。相手が信長では味方できないというのである。

「――事情ご了察願いたい。何しろ信長公は乱暴無頼、叡山すら焼き払うたほどのご仁でござりまするからなあ。ここでお味方しては、当霊場も灰燼に帰する覚悟でなければなりませぬ」

 使者は呆然として東雲寺へもどって来た。

 こうなっては頼るものは、亥山城の朝倉式部大輔景鏡だけであった。景鏡は姉川の合戦のおりから、つねに義景の代りに、朝倉勢を率いて総大将をつとめて来ている越前の柱石で、こんども陰で義景の逃亡をあれやこれやと指図していた。

  ところがその景鏡のもとへ、信長の旗本、稲葉一鉄のもとから密使が飛んでいた。

「――越前で朝倉義景の味方は、お許ひとりになった。無益な交戦はやめて降るがよかろう。それとも一条ヶ谷を陥した勢いで、一挙に亥山城を踏みつぶそうか――」

 景鏡は使者を前にして腕を組んで考えこんだ。

「――もし城を開いて降れば景鏡が生命をお許しくださろうか」

「――これは心得ぬことを仰せられる。このような小城ひとつ開いたとて、何で信長公がお許しあろう。ご貴殿には、ご貴殿で降る前になすべきことがあるはずじゃ」

「――降る前になすべきこと ?」

「――いかにも。とくとお考えめさるよう」

「――と、云われると、この景鏡に、義景の首を打って渡せと云わっしゃるか」

「――お指図は申さぬ。しかし、そうせぬでは信長公の怒りは解けまい。何分にも朝倉家は、信長公の天下平定を邪魔し続けた第一の御家でござれば」

 そう云われるとまた景鏡は眼を閉じて考え込んだ。たしかに使者の云うとおり、信長の怨みを買いすぎた朝倉家だった。

「――それとも、このまま立ち帰ってすぐに城攻めにかかりましょうかな。義景公は、いまだに武田勢の進出を夢見ておられるようじゃが、冥土から援軍は出ませぬからのう」

「――なに、冥土から援軍??とは、何のことでござろう」

「――ご存知ないと相見える―― ハハハ、義景公や公方がお待ちかねの武田入道信玄は、この春とうに死んであること、織田家細作どもが徳川家のそれと力を合せて探り出してござる。それで無うて、何で信長公がこの地まで悠々と兵を進めて来られるものか」

 (話の続き)桑野淳一著《越後毒消売りの女たち》より第三章『越前浜』:結果は諸氏ご存知のように、義景は腹を切った。義景の供をしたのは高橋甚三郎、鳥井兵庫などの側近であった。これをもって戦国武将、朝倉は姿を消したことになる。しかし景鏡反逆を予見した者も僅かに居た。行方知れずとして、記述がないのが斎藤兵部少輔(愛王丸の母、小少将は斎藤兵部の娘)と小川三郎右衛門父子である。義景の息、愛王丸はどうなったであろうか。一般的な記述ではこの時に共に命を落としたことになっている。焼き殺されたとか、刺し殺されたとか、資料によってまちまちである。どこかへ消えたという説もある。朝倉の血統が現在にも伝わっているとすれば、この時に景鏡がなんらかの手を加えて逃がしたという説に立つ訳である。
 先ほどの小川さんは言う「愛王丸をお守りして、ここ越前浜に逃げて来たのは私の先祖、小川三郎右衛門なんです。勿論、斎藤兵部様も一緒でした。この越前浜の村を最初に造ったのは朝倉の家臣二十八人衆なんです」となる。
 朝霧の中、越前国三里浜を離れた舟には28人衆に混じって愛王丸もいた。舟は北へ進み、山麓が海にせりだしているあたりに辿り着いた。角田岬付近である。山の中腹まで一目散に登り、そこを当座の隠れ場所とした。『ここまでは信長も追っては来まい』ここで生き延びる決意を新たにした。異国の越後に身を移してはいるが、想いは越前そして亡き君・朝倉義景公である。やがて愛王丸も成長した頃、山を下り平地を目指し土地を求めた。『この地を皆の終の棲家としよう』寺を建立し、愛王丸は得度して永尊となった。山号は義景ゆかりの寺、川尻山・西光寺と同じ『川尻山』とし、寺の名前は西遊寺とした。これ以来19代に及ぶ村の寺・西遊寺と越前浜の歴史が延々と続くことになる。
  大正4年11月、義景の父孝景に「正四位」が下賜された折、全国から遺族と称して8人も名乗り出たが、それに最も近いお方が、今目の前にいらっしゃる西遊寺第19代住職、朝倉長麿様である。
 越前浜は一村一寺であり、住民全員がこの西遊寺の檀家である。私は今、ここで朝倉様と書いたが、今もこの村では様と呼ばれる家がいくつかある。前出の朝倉の家臣 斎藤様、小川様もそうである。この地に来れば人は今でも自然に様と呼ぶのだ。
 「この地こそ我らが里、越前の浜だ」と開墾の同志は心に秘めながらも、その名はまだ伏せて『新浜』と呼んでいた。越前浜村と呼称されたのは250年余り後、明治に入ってからである。越前浜村開祖の28人衆は西遊寺同様、村の人から慕われ、中でも小川、斎藤、金子姓が越前浜の御三家となり、村では『小川様』、『斎藤様』などと必ず『様』づけで呼ばれるようになった。金子屋敷の建つ道は『金子様の通り』となり、村の中央を縦貫する道路は『御三家通り』とも呼ばれた。420年以上経過した現在(2004年8月)の越後の越前浜は世帯数243、総人口846人となっており、金子姓16軒、小川姓11軒、斎藤姓11軒がある。

⑤ 余談

  松原信之著『越前朝倉一族』によると、 朝倉孝景は勤王の大名であったとして大正4年「正四位」の位記が宮内省から下賜された。このとき、その末裔と自称する者が全国から8人出願したため、福井県は東京帝国大学資料編纂部に鑑定を依頼したが、結果は一人も正統者がいなかった。結局、位記は朝倉家の菩提寺である心月寺に保管されている。
 歌手の島倉千代子氏の祖先も朝倉氏であったとする。島倉氏の系図によると、朝倉義景の弟の太郎左衛門正景が越後に逃れて三島郡西越荘に土着し、その7代目五兵衛が延亨元年(1744年)与板藩 井伊直存に、さらにその甥の善蔵が文化13年(1816年)に井伊直朗にそれぞれ召し抱えられており、この時 朝倉から島倉に改姓したとみられる。召し抱えられたのは朝倉氏の系譜をもつ郷士級の家柄であったからであろう。ただし、義景の弟の「太郎左衛門正景」を祖とするのは当らない。

= 西遊寺 =
 
= 鳥之子神社 =
 
= 宮之平 鳥之子神社 =
 
= 一乗谷 =
 

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